和田ステンレス工業株式会社
■家庭用から産業用へ転換、燕の岐路を乗り切る
業種:ステンレス加工業
和田ステンレス工業株式会社
多くの伝統的産地が発展途上国の追い上げやグローバル化の波にさらされ、地場企業はサバイバルへ塗炭の苦しみをへて岐路の選択をしてきた。新潟・燕の金属洋食器業界も例外で無い。ここにも、様々な工夫で乗り切ろうとする、あるいは乗り切った多くの企業の物語がある。戦前からの洋食器製造を泣く泣くたたみ、魔法瓶を経て、ステンレス製の工業用薬品容器とビール樽の製造へ事業転換を図った和田ステンレス工業株式会社(燕市、和田喜代作社長)もその一社だ。
同社の前身、和田鋳造所は1934年(昭和9年)の創業、洋食器製造に参入した。燕は江戸初期から、金工の歴史を刻んできた。特に和釘(わくぎ)づくりで知られ、江戸末期には、福井県小浜市と並び和釘の産地として全国的に名をはせた。この金工技術が明治期に、銅器、きせる、やすり、矢立、灰ならし、火箸(ひばし)など家庭用金物づくりへと広がった。これが大正時代の手づくり金属洋食器へと受け継がれ、昭和期に入っての機械生産を経て、戦後の欧米への積極的な輸出産地へと変貌していった。同社の歴史はこの産地の変貌と軌を一にするように発展、戦後の隆盛も経験した。しかし途上国のライバル商品の出現で産地は一転苦しみの道を歩むことになる。同社もサバイバルの選択を迫られていく。80年、和田ステンレス工業と改め、魔法瓶の量産へと転換した。
当初は良かったが、魔法瓶も追い上げに苦しむ。さらに事業転換の転換度を高めた。85年にステンレス製の工業用薬品容器に参入、93年にステンレス製ビール樽の量産へ踏み込んだ。家庭市場から産業市場にターゲットを大きく切り替えたのだ。いずれもいまや事業化に成功している。成功のかぎは何だろう。同社は大きなかぎとして社内一貫生産体制の確立を上げる。従来、燕の産地企業はリスク分散のため分業が普通だった。これを、高い品質をセールスポイントとするために社内一貫に転換したのだ。プレス加工、深絞り、内側溶接、電解研磨、表面コーティングなど、すべて自社内加工できる技術開発を行っていった。これが得意先の開拓に力を発揮、転換の岐路を渡ることができた。
いまや近代的な金属容器メーカーの道を歩む同社だが、さすがに産地の苦しみを薬にしてきただけに、手づくり精神という産地・燕の伝統は脈々と同社の土台に据えられている。社内一貫の体制作りの基盤となった、ひとつひとつ手づくりの自社技術を重ね合わせてきているのはその証左だ。ステンレス製容器に燕の精神が息づいている。
著作者:e-中小企業庁&ネットワーク
出典:中小企業ネットマガジン
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